コスモトラベルで行く
A

2014年4月10日
第B回
篠山城
昼食(黒豆の館) 銀の馬車道(辻川) (福崎IC)

福崎町に着きました、少し歩くと熊野神社です。
兵庫県神崎郡福崎町西田原1539
゛全国に、およそ3.000社はあると云われる熊野神社の一つでしょう。


3回目の『銀の馬車道』は、福崎町・辻川の散策です。
散策マップをクリックで、拡大しまいす。


ココ辻川の名物は『もち麦』と.云う事で・・・先ずは『もちむぎのやかた』
もち麦は大麦の一種です。穀類の中でも高タンパク、高ミネラルで、β-グルカンという食物
繊維を多く含み、粘性があるのが特徴で、普通の麦より「もちもち」した食感が楽しめます。
福崎町では、古くからもち麦を栽培し、団子として、食べていたという歴史があります。

 
『モちむぎのやかた』で、買い物を済ませ、館を出ると・・・何やら人だかりが
巌橋の下には.河童が2匹居るそうナ〜



さて、現地ガイドさんの案内で、辻川散策が始まりますが、
どうやらコノ辻川は、柳田国男と松岡兄弟の事を、事前に
お勉強しておく.必要がありそうです。

儒者で医師の松岡 操まつおか みさお)は、姫路藩の儒者角田心蔵の娘婿田島家の弟として一時籍を入れ
“田島賢次”という名で仁寿山黌や好古堂という学校で修行し、医者となります。
その後、一旦は医業を見切り姫路の町学校である熊川(ゆうせん)学舎に招聘され、漢学の師匠となり盛年
を過ごしますが、その間に本居宣長、平田篤胤に強く惹かれ、五男の國男が生まれた頃には御社の神官を
していました。このことが柳田國男に与えた影響が大きかったのでしょう。

子供は7人、長男=鼎、三男=井上通泰、六男=柳田國男、七男=静雄、八男=輝夫(松岡映丘)は大成し
「松岡家5兄弟」と後世呼ばれるようになりました。

 ◎長男、松岡鼎 小学校長から医師となる

   次男、俊次は.19歳の時に病死

 ◎三男、松岡泰蔵(井上通泰)医師で歌人・国文学者 .

   四男、友治は3歳で亡くなっています。

 ◎五男、柳田国男 民俗学者

 ◎六男、松岡静雄 言語学者 日本の海軍軍人

 ◎七男、輝夫(松岡映丘)日本画家


柳田 國男は、松岡操の五男で.1875年(明治8年)7月31日兵庫県神崎郡福崎町生まれ、
「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、
初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と
述べた日本民俗学の開拓者で、最晩年に名誉町民第1号となり、没後に正三位勲一等を
受けています。




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