大覚寺統と持明院統の詳細

亀山天皇から発し 八条院領を継承した 大覚寺統(南朝)と、
後深草天皇
から発し長講堂領を継承した持明院統北朝)とが
皇位を争った。

八条院領とは、鳥羽上皇が皇女八条院に伝えた荘園群
長講堂領とは、後白河法皇が持仏堂長講堂に寄進した荘園群

大覚寺統は、大覚寺を院御所とし、八条院領を継承した。鎌倉末期、持明院統と皇位を争って両統迭立が決まる。この皇統の後醍醐天皇は建武の新政に成功したが、足利尊氏が離反して持明院統の光明天皇に譲位させられると吉野に南朝を立てて京都の北朝(持明院統)に対抗したが、南北朝合体後は皇統を外れた。

持明院統は、持明院を院御所とし、膨大な皇室領荘園である長講堂領を継承した。建武新政により一時衰退したが、新政崩壊により足利氏に擁立され、南北朝合体後は皇位を継承して現在の皇室に至っている。

両統の発生は、後嵯峨天皇(上皇)(1220〜72、在位1242〜46、院政1246〜72)が、長子後深草天皇(以後その血筋を持明院統)にせまってその弟(亀山天皇、以後大覚寺統)に譲位させ、かつ亀山の皇子を皇太子と定め、幕府も認めた。これが両統のはじまり。

両統迭立とは、両統が交代で皇位につくこと。後嵯峨天皇の譲位後、両統が対立したため、幕府が和解に立った(1317年、文保の和談)とされるが解決には至らず。花園天皇(持明院統)の後は後醍醐天皇(大覚寺統)が即位し、在位10年で交替することになった。しかし後醍醐天皇は退位せず、吉野南朝を立てて足利尊氏に擁された北朝(持明院統)と対立(南北朝時代)した。