2007年10月20日
     澤熊講師と歩く湖北の観音さま

(湖北の仏教文化と伊香三十三観音巡りウォーク)
〔第7回〕


00 00 00 00 00 00


大阪 梅田茶屋町7:30 名神=京都東IC = (湖西)道の駅「あどがわ」 菅浦
菅浦・四足門長福寺跡阿弥陀寺岩熊・蓮通寺昼食「ラ・ピラミッド」
31世代閣(戸岩寺)32己高閣(鶏足寺)33石道寺観音の里
資料館



5月4日から始まった湖北の観音様巡りも過去6回を重ね、今日の7回目が最終回
その 結願の日の第一歩は、琵琶湖の北端、菅浦の里に 降り立ちます。


万葉集に「高島の 阿渡の湊を 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今か漕ぐらむ」 と歌われる菅浦は
春には 4000本の桜が咲き乱れ、秋には 橙色に染まる奥
琵琶湖の山々が、訪れる人を暖かく迎えてくれる隠れ里です


中世の頃には天皇家に特産物を収めることで漁業の特権を持っており
「惣」という独自の自治組織を持っていた。他郷者の移住を拒み、村の
東西南北の入り口には
四足門と呼ばれる要害の門が置かれていた。


-
菅浦集落の湖岸には、波よけの石垣が築かれています。




長福寺跡
四足門から数分歩くと、淳仁天皇の菩提寺と 伝える 長福寺跡があり、
天皇の墓と称する供養塔がありました。近くの須賀神社は淳仁天皇が
合祀されていると聞きましたが、時間の都合で本日の参拝はパスです。

-
淳仁天皇(大炊王)淡路島の南淡町に在りますが、菅浦の地には、奈良時代
謀反の罪で廃位になった淳仁天皇が住んでいたという伝説が残っています。
ここ菅浦には淳仁天皇の「保良(ほら)の宮」があったといいます。須賀神社の社のある
ところは、「保良の宮跡」であり、この村の人たちは淳仁天皇に仕えた人々の子孫であ
るという言い伝えが残っています。。

系譜は舎人親王の第七子。母は当麻氏。藤原仲麻呂の長男真従の未亡人粟田諸姉
を妻とする。即位後、皇后・夫人などを立てた記事は史書に見えない。子には斎宮とな
った山於女王などが伝わるが、確かではないらしい。

757(天平宝字1)年4月、孝謙天皇の推挙により皇太子に就く。この時25歳。翌年8月、
即位。761(天平宝字5)年、保良宮滞在中に道鏡孝謙上皇に接近したことが契機と
なってか、翌年には上皇との不和が決定的となり、764(天平宝字8)年の仲麻呂の乱の
直後、孝謙上皇に対する謀反を理由に天皇を廃され、親王に貶められ淡路に幽閉され
翌年の天平神護元年10月、逃亡を計って捕えられ、その翌日変死。薨年33歳でした。

天皇を廃された後は廃帝・淡路公などと称され、淳仁天皇の諡号が追贈されたのは
明治になってからのことです。    天皇家における淳仁天皇の位置はココを




菅浦・阿弥陀寺
西浅井タウンバスの終点「菅浦バス停」から徒歩5分。、湖と山に挟まれた細長い村なので、
山にへばりつくように、湖を見下ろす小高い石垣の上に、お堂があります。

ご本尊は立像の阿弥陀如来様らしいですが、、本堂須弥壇上厨子内に安置されていて
お逢いする事は叶いませんでしたが、正面左に2体の坐像が・・・
蓮の花をお持ちの像は観音様と判りますが、他方の大きいお像は?、阿弥陀様でしょうか・・・

寺歴
もとは天台宗の寺であったと推測されていますが、暦応元年(北朝・1338)ころから開山の
託何上人がこの地を訪れ時宗を広め、阿弥陀寺は文和2年(1353)に時宗の寺となった。




岩熊・蓮通寺
源義仲が粟津ヶ原にて敗死し、その子息、義高と義順の兄弟は湖北で隠遁していましたが、
越後に流される本願寺開山親鸞聖人に海津にて教えを受け、兄の義高は海津荘岩谷の地
に願慶寺を、弟の義順は塩津荘岩熊に
蓮通寺を開きました。ご本尊は阿彌陀如来立像です、


-
蓮通寺の大日如来
蓮通寺の石垣の下に護国山大聖寺というお寺がありました。明治になって廃寺となったため
ご本尊の大日如来(平安後期)を蓮通寺の境内の隅にお堂を建てて奉安することになりました。

寺歴
源義仲が粟津ヶ原にて敗死し、その子息、義高と義順の兄弟は湖北で隠遁していましたが、
越後に流される本願寺開山親鸞聖人に海津にて教えを受け、兄の義高は海津荘岩谷の地
に願慶寺を、弟の義順は塩津荘岩熊に
蓮通寺を開きました。



お昼からは場所を伊香郡の木ノ本町に移して、伊香観音札所の31・32・33番と巡ります。





旧戸岩寺
與志漏(世代)神社の鳥居をくぐって参道を真っ直ぐに進むと、旧戸岩寺に突き当たります。
その奥が與志漏(よしろ)神社。神仏混合の名残でしょうか?
扉は閉ざされていて、格子窓の隙間から覗くと十二神将らしき像だけ見え、中央のお厨子
の中は薬師如来像かと想像・・・すぐ隣の世代閣の薬師様が、コノ中にあったもの?
コノ辺りから、私の頭はややこしく、分裂状態になってきます。
旧戸岩寺のすぐ近くの世代閣に(戸岩寺)とあるのは、なんとか理解出来るとして、その隣の
己高閣に(鶏足寺)とあり、ひと山越えた処には、鶏足寺(旧飯福寺)と・・・
其の上、己高閣(鶏足寺)で買い求めた絵葉書の表紙に鶏足寺とあるのに、写真は世代閣の
薬師如来であったり・・・ナニが何やら・・・

当日説明を受けた記憶を辿って、頂いた栞も何度も読み返してまとめてみましたが自信ナシ
間違いがあれば、ご指摘をよろしくお願い致します。




己高閣(鶏足寺)
滋賀県の湖北は、仏教文化が早くから若狭ルートの大陸文化と都の影響を受けて、
平安期には己高山鶏足寺を中心に大いに隆盛し、湖北に一つの仏教文化圏が形成
されていました。
 己高閣は、この鶏足寺の文化財収蔵庫で、時代の推移とともに次々と無住・廃寺と
なった寺に残された寺宝を安置するため、昭和38年に建設されました。
中には鶏足寺本尊の十一面観世音(重文)法華寺の七仏薬師(県指定)他約20躰
の重要な仏像が安置されています。

-
七仏薬師
の詳しい事は・・・→ココクリック




鶏足寺
延暦18年(799)伝教が再興、天台宗でしたが、江戸時代の初め真言宗となりました。
己高山には、5ケ寺とその別院6ケ寺があり、鶏足寺は、その内の代表的な寺院で
現在はすべて朽ち果て、その仏像等が、己高閣及び世代閣に収納され、地区の
村人達によって管理されているのです。

一寸メモ
己高山・五ケ寺・・・・・・・・法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺
観音寺別院六ケ寺・・・・・鶏足寺、 飯福寺、、円満時、石道寺、法華寺、安楽寺




世代閣(戸岩寺)
薬師如来、十二神将三躰、魚藍観音、十所権現像、己高山縁起(以上県指定)他、
宝物類が多数収蔵されています。



世代閣・己高閣からは、チョッとした小高い丘、『亀山』を越えて伊香33番札所の石道寺に向かいます。

-
亀山の茶畑
 ここ古橋は古くから茶の産地として知られた郷であり、その由緒は平安の昔、
己高山鶏足寺を再建した最澄が薬師鎮座の古皇村(現在の古橋村)に相応しい
薬の木を植えさせたことに始まると伝えられています。






旧飯福寺
ココのことを村の人たちは現在、鶏足寺と呼んでいるみたいです。
(
一時期 鶏足寺の仏様が、この飯福寺に間借りしていらっしゃったとかで ・・・)




石道寺
元は現在地の東約1`、三谷川沿いの山間にあり、平安から鎌倉時代にかけて、
己高山七大寺の一つとして栄えたお寺ですが、その後、徐々に荒廃し、明治29年
(1896)ついに無住の寺となってしまいました。大正3年(1914)本堂を現在地に移築
その翌年、石道観音堂(旧高尾寺)と合併し、此の新石道寺が誕生しました。

本堂厨子の中に3躰の観世音像が安置され、中央のご本尊は欅材一木彫極彩色
像高173.2cmの十一面観音。平安中期の作と伝えられています。


-


伊香観音巡りも、この石道寺でめでたく結願。少し離れた所で待っているバスまでの途中
ふと振り返ると
村の娘さんの姿をお借りになってここに現れていらっしゃるのではないか、素朴で優しくて
 惚れ惚れする様な魅力をお持ちになっていらっしゃる。野の匂いがぷんぷんする
』、 と…
作家・井上靖が小説星と祭の中で、村の若い娘さんにたとえた 石道の観音様と、お堂が.、
咲き競うコスモスのむこうから、我々一行を見送ってくれておりました。





伊香三十三観音様の朱印帳