若狭小浜の名刹を訪ねて
〔第@回〕 2007年11月20日



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大阪 梅田 茶屋町7:30発 名神 = 京都東IC(湖西) = 道の駅あどがわ
小浜国分寺=羽賀寺 昼食(若狭マリンプラザ)
空印寺=八百比丘尼入定洞高成寺三丁目散策小浜公園
妙楽寺 円照寺 道の駅あどがわ =湖西=名神=大阪梅田


かつて小浜は、奈良や京都などの中央との交易要路として栄えてきました。
東大寺二月堂の お水は小浜から送られるとされており、毎年3月2日に「お水送り」の神事が行われます。
若狭小浜の180余点ある文化財のなかには当時の中央の技術に匹敵すると評される逸品が数多く含まれ
132にのぼる寺院数は人口比では国内一であり、その多くが古寺・名刹で知られています。
若狭湾国定公園の ほぼ中央部に面した小浜はそれ故に、海のある奈良とも呼ばれます。

そんな若狭・小浜の名刹を・・・「澤熊講師の厳選11ケ寺巡り」に参加しました。
本日はその1回目で、5ケ寺を訪ねます。



小浜国分寺
若狭国分寺跡に建つこの寺院は、発掘調査で金堂や塔等の遺構も確認されており、その境内地は国指定史跡なっている。
この寺院の別当寺であった明通寺(小浜市)に国分寺再建に関する文書が残されており、その内容と現釈迦堂(旧金堂跡)の
様式等から判断すると、宝永2年(1705)頃に建立されたものと考えられる。
構造は正面5間(12.17m)、側面5間(10.96m)、入母屋造茅葺(現在は鉄板で被覆)である。柱はすべて円柱で、3間×2間の
内陣の前に3間×1間の礼堂を付し、この四周に1間の庇を廻らす構成で、礼堂正面4本の柱は虹梁を用いて省略する。
この構成は、中世密教系寺院本堂の影響を強く受けたものといえ、全体に古い様式をよく伝えておりすぐれた建物である。
                                                           (小浜市教育委員会)




羽賀寺
むかし鳳凰飛来して、その羽を落して行った霊地にちなんで、この寺を鳳聚山羽賀寺と名づけたという。行基が勅命を奉じて
創建したという名刹だけに、寺坊18をそなえたというが、今は往時を偲ぶ姿もなく、僅かに本堂と本尊を遺すのみとなった。
本堂は昭和41年9月に解体修理され、室町中期文安4年(1447)に再建された当時の偉容に接することが出来るようになった。
桁行13.74m(5間)、梁間14.63m(6間)、棟高13.21mの規模である。桧皮葺き入母屋造りに、各部和様を基調とする本堂のた
たずまいは、屋根の勾配の柔らかさ、軒廻りの線の美しさなど調和して遠い由緒を持つ名刹に恥じない。
小浜の地には、鎌倉期の明通寺本堂・妙楽寺本堂、室町中期の羽賀寺本堂・飯盛寺本堂、それから室町末期の神宮寺本堂
建築へと、時代を追い、程よく年次を隔てた遺構をもっている。(小浜市教育委員会)




若狭マリンプラザ(昼食処)
建物の裏の海辺からは、若狭富士が真正面に見えます。



空印寺
薬医門のある空印寺は小浜藩主酒井家の菩提寺で、孝心の篤かった二代藩主忠直が、父忠勝の七回忌法要を執り
行うに当り、在来の堂舎では手狭なため、菩提所にふさわしい壮麗な伽藍を造営したという記録がある。その七回忌は
寛文8年(1688)で、当薬医門もその際建立されたものであるが、他の諸堂はこの後たびたびの大火に類焼してすべて
失われ、いまはこの門だけが当時のおもかげを止めている。



空印寺の門前に
八百比丘尼入定洞

八百比丘尼の伝説は、北は東北から南は四国、九州まで全国に広がる 物語ですが、いずれの土地のものも全べて
若狭小浜と深いかかわりをもった伝説として語り継がれています。若狭で語られている八百比丘尼物語とは、むかし
東勢村に高橋長者と呼ばれる人がいて、ある時海中の蓬莱の国へ招かれ、お土産に人魚の肉をもらってきました。
長者の娘がそれを食べたところ、八百歳になっても娘のように若々しく、困った娘は尼になり全国を行脚して、最後に
若狭小浜に帰り、この洞穴に入定(生きたまゝ身を隠し静かに死をまつこと)したというものです。この時八百比丘尼
は、洞穴の入口に白椿を植えたと伝えられています。



ココは三つのお寺が一ヶ所に・・・



高成寺
高成寺は足利尊氏が暦応2年(1339)に若狭小浜に建立した安国寺であり、元僧竺仙梵僊の法嗣大年法延を迎えて
開山とした臨済宗の名刹である。
本像は、高成寺観音堂の本尊として安置される等身の十一面千手観音立像である。この観音堂の開創について記録
はないが、江戸時代に入ってから編纂された『若狭郡県志』に「伝言、此像旧在遠敷下宮之傍、一日山伏某奪取之去、
土人尋求之時、投斯像于湯川水中、(中略)然携彼像到青井村、置山下、後遂為斯堂之本尊、始投水中之時、像前額
小破、故加笠於頭上矣」と記されている。この記述からすると、本像が古くは遠敷の若狭姫神社の傍にあったことが判
明し、『延喜式』記載の若狭姫神社(遠敷明神)本地仏千手観音との関連も推しはかられる。
本像は像高181.0pで、彫眼とし、胸や腰に十分な厚みをもたせ、下腹を張り出すことや、天衣や裳には彫りの深い
幅広の波と小波を交互に刻み、衣端に旋転文が見られる。構造は、やや右に曲った木芯を含む桧の縦材から全身を
彫り出し、内刳りを全く施さないなど極めて古風な造りである。このような構造や、下半身が寸詰まりに見え裳裾地付部
分の左右への張り出しも大きいなどから、平安時代初期の9世紀後半頃の製作と推定される。
当初は大振りの脇手を伴い均整の取れた堂々たる四十二臂千手像の美作であったと推定され、若狭地域における
千手観音像の最古作例として注目される。(小浜市教育委員会)




妙楽寺
奈良時代のはじめ、名僧行基が本尊を刻んで山腹岩屋山に奉安し、その後弘法大師が霊地を占って今の地に伽藍
を建立したと伝える。
この建物は若狭に現存する建築の中で最も古いものの一つである。明治34年(1901)に特別保護建造物に指定され、
昭和37年には解体修理を行って、昔のおもかげを復元したものである。
円柱や斗?など軒廻りは見事な和様で、すべてが大陸様式を混入せず、また木割も大きくて、全体に雄健で鈍朴清楚
な味わいをただよわせている。鎌倉時代初期の建築である。
五間四面の本堂内部は、密教建築の特色として内外陣に分れ、殊に外陣の天井は寄棟式化粧屋根裏を呈していて、
近江長寿寺や豊前善光寺などに見られるが、他に多くの例をみないものである。そして内外陣境には菱欄間と格子戸
を入れて区画を厳重にしている。内陣の正面の須弥壇および永仁4年(1296)の墨書がある厨子の格侠間は、ともに古
い様式の逸品である。(小浜市教育委員会)




圓照寺
この寺は南川の大洪水によって、対岸から現在地に移され円照寺と改め、真言宗より臨済宗に改宗している。
大日如来坐像は、本堂右側の大日堂に安置されている。本像は高さ251.5pの大作で、12世紀初頭の作である。
大日如来は、密教において最高至上の存在とされる両界曼茶羅の主尊で、そのかたちは金剛界は智拳印(胸前
において左拳の人差し指を右掌をもって握る)、胎蔵界は法界定印(本像のように結跏趺坐の膝上に左掌を仰け
ておき、その上に右掌を重ね二大指の先を合せる)を結ぶ二種に分れる。大日如来の姿は如来であるのに髻を結
い釧などの飾りをつけ、天衣をまとう菩薩像につくられる。
本像は、頭の鉢を張って、顎を小さくつくり、体部も両肩を張り、銅を引締めて逆三角形にまとめ、しかも両肘と膝
の張りが充分で、全体に安定感のよい造型を示しており、特に面相の伏目の両眼、細い両腕、彫りの浅い衣文の
掘り口などに平安末の特色がある。北陸地方では数少ない大日如来像の優品といえよう。
江戸末期に全身の金箔をあらため、蓮華を除く台座の大部分、光背などを後補している。(小浜市教育委員会)