若狭小浜の名刹を訪ねて
〔第A回〕 2007年12月6日





0大阪・梅田茶屋町 8:00発 = 京都縦貫道 =園部(休) =名田庄・壇渓寺 =暦会館 = 
0若狭マリンプラザ(昼食)=多田寺=明通寺=神宮寺=萬徳寺=鵜の瀬=若狭姫神社



名田庄・壇渓寺
今回、私達は 京都縦貫道の園部から入りましたが、小浜からは国道162号線を南川に沿って
溯り山手に入り「名田庄村」へ25番の大智寺より25`納田終の里に【壇渓寺】はあります
以前はここより2`奥にありましたが、過疎化のタメ・平成2年10月に現地に移築
新しい『本堂』には、ご本尊の千手観世音菩薩を拝します。


壇渓寺は
若狭33ヶ所の1ヶ寺に列しています。
永巌寺・金前寺・龍渓院・阿弥陀寺・瑞林寺・法泉寺・慈眼寺・弘誓寺・天徳寺・大蔵寺・永源寺・
漣性寺・松福寺・円通寺・松源寺・神宮寺・神通寺・多田寺・妙楽寺・円照寺・高成寺・正法寺・
栖雲寺・雲外寺・大智寺・壇渓寺・海元寺・潮音寺・法楽寺・馬居寺・大成寺・正楽寺・中山寺




名田庄・暦会館
若狭国(福井県)の南端、丹波国(京都府美山町)に接する福井県大飯郡おおい町名田庄・
納田終[ノタオイ]には戦国時代この地に京都より移住した陰陽道宗家安倍氏の遺跡が存在
します。遺跡は小字小谷の山麓に阿倍家三代の墓所があり、又、その近くには陰陽道祭祀・
儀式などをおこなったとされる施設と館跡が残されていて、応仁の乱(1467)の戦火を避けて
所領の当地へひきこもり、この地で陰陽道及び、天文・暦・易の三道をつかさどっていたと伝
えられています。
安倍家は安倍晴明を祖とし、陰陽道・泰山府君を祀る安倍神道が成立したという。若狭との
かかわりは南北朝期の文和2年(1355)に泰山府君祭料として縫殿頭有世に当地を与えられ
たのが初現とされ(「土御門関係資料」宮内庁)、以後近世初頭まで存続しました。


平安時代の陰陽家・安倍晴明の子孫,土御門家の人々が室町時代から江戸時代にかけて
約百二十年間ここに住んで, 朝廷や将軍家のことを占ったり,祈とうしたり,暦を作ったりしていました。



若狭マリンプラザ(昼食処)
今日はお天気が最高で、若狭富士が前回以上に美しく見れました。




多田寺
孝謙天皇の勅願によって眼病が治癒。木造薬師如来立像が本尊、ほかに木造月光菩薩立像、
木造日光十一面観音菩薩立像などがある。いずれも国の重要文化財に指定されているが、中
でも日光十一面観音菩薩立像は日本密教定着以前のものとされ、歴史資料としても価値が高い。




明通寺
大同元年(806)桓武天皇のとき、征夷大将軍坂上田村麻呂公が蝦夷征伐に際して創建したと
伝えられる古刹。鎌倉時代建立の本堂と総高22mの三重の塔はいずれも国宝
幾星霜を経て存在する荘厳なたたずまいを感じます。
また木造薬師如来像や木造深沙大将立像、木像造降三世明王立像、木像不動明立像など、
平安後期の仏像4体が重文となっています。




若狭神宮寺
小浜の若狭神宮寺は、奈良時代初期に創建された天台宗のお寺で、奈良・東大寺二月堂への
お水送りが行われるお寺です。
若狭神宮寺の現在の本堂は室町時代に建てられ、重要文化財として指定されています。
若狭神宮寺の本堂の中には本尊薬師如来坐像をはじめ見事な仏像が立ち並んでいます。


神宮寺の由緒書
若狭は朝鮮語ワカソ(往き来)が訛って宛字した地名で、奈良も朝鮮語ナラ(都)が訛って宛字されている。この地方が
若狭の中心で白鳳以前からひらけ、この谷は上陸した半島文化が大和(朝鮮語でナラともいう)へ運ばれた最も近い
道であった。それは対馬海流にのってきて着岸した若狭浦の古津から国府のある遠敷(おにふ=朝鮮語ウォンフ−「遠
くにやる」が訛った)や根来(ねごり=朝鮮語ネ、コ−リ「汝の古里」が訛った)と京都や奈良が百キロほどの直線上にあ
ることである。 この地方を拓き国造りした祖先が、遠敷明神(若狭彦命)で、その発祥地が根来の白石で、都へ近道の
起点に良地をえらび、遠敷明神の直孫和朝臣赤麿講が八世紀初め山岳信仰で、紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の
王を金鈴に表し地主の長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建され、翌年勅願寺となったその秋には、紀元
一世紀頃唐服を着て白馬に乗り影向し、すでに根来白石に祀られていた遠敷明神を神願寺に迎え神仏両道の道場に
された。これが若狭神願寺の起源で鎌倉時代初め若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称したのである。
又、神願寺の開山赤麿(和氏)公は白石の長者の神童(幼児)を大和に伴い、当寺の名僧、義淵僧正(大樹)に「託され、
後、東大寺開山良弁僧正になられ、神願寺へ渡来した印度僧実忠和尚が良弁僧正を助けて東大寺を完成し、さらに、
二月堂を建て、お水送り行法を始められた。その若狭井の水源が白石の鵜の瀬であるから、白石神社で行ったのを伝え
根来八幡宮では毎年三月二日、山八神事を行い、同日夜、神宮寺から神人と寺僧で鵜の瀬へお水送り神事がある



神宮寺境内の閼伽井戸から汲み上げた聖水を数キロ先の鵜の瀬より奈良東大寺の二月堂に
送る行事が『
お水送り』、また若狭から送られたその聖水を、汲み上げる行事が『お水取り』です。

この神宮寺から鵜の瀬まで、お水送りの神事通り、ウォークの予定があったのですが
萬徳寺の拝観制限時間も迫り、ウォークは中止。直接バスにて萬徳寺へ向いました。





萬徳寺



萬徳寺は花の名所として知られています。国指定名勝の庭園を持つ寺院で、春はツツジ、初夏は新緑、
秋は紅葉が、白砂を敷きつめた枯山水庭園を彩ります。のどかな山々や田園風景の景色と相まって、
四季折々に様々な表情を見せてくれるお寺です。




鵜の瀬
萬徳寺のお参りお済ませて、バスが鵜の瀬に着いた頃は、日もとっぷり傾いて・・・

小浜市「鵜の瀬」由緒書
天平の昔、若狭の神宮寺から東大寺に行かれたインド僧・実忠和尚が大仏開眼供養を指導の後、753年に
二月堂を創建し修二会を始められた。その2月初日に全国の神を招待され、全ての神が参列されたのに若狭
の遠敷明神(彦姫神)のみが見えず、ようやく2月12日(旧暦)夜中1時過ぎに参列された。それは川漁に時を
忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水を送る約束をされ、そ
の時二月堂の下の地中から白と黒の鵜が飛び出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付けその水を汲
む行事が始まった。それが有名な「
お水取り」である。その若狭井の水源が鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から
鵜が奈良までもぐっていったと伝える。この伝説信仰から地元では毎年3月2日夜この淵へ根来八幡の神人と
神宮寺僧が神仏混淆の「
お水送り」行事を行う習いがある。



若狭一の宮(若狭姫神社)
完全に暗闇ですが、参詣だけは無事に済ませました。(若狭彦神社は時間の都合で、又の日に…)

上社の若狭彦神社、下社の若狭姫神社を合わせて、若狭一の宮とも呼ばれている若狭最古の神社。
もともと同じ場所に鎮座していたが、後に上社と下社に分けられました。
ともに古来若狭の国の開拓祖神、総鎮守とされています。



この若狭一の宮神宮寺が、お水送りが行はれる前出の若狭神宮寺です。

神宮寺とは・・・日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院の事です。



お土産
若狭小浜のお土産は、何と云っても「焼きサバ」と「若狭カレイ」でしょう。

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