シリーズ源平を歩く B 
2005年3月18日 (15`)
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寶樹寺
(ほうじゅじ) 東福寺駅・北すぐ
本堂には、本尊の阿弥陀如来立像及び薬師如来座像を安置している。この薬師如来座像は、俗に「子そだて常盤薬師」と呼ばれ、
常盤御前が、今若、乙若、牛若の3児の生長を祈願した像と伝えられている。
また、境内には、
「常盤御前雪除けの松」と呼ばれる残株があり、常盤御前が大和(奈良県)へ逃れる際、この地の老松の下で、しばし雪の降るのを避けたと伝えられている。
東山区本町11丁目


泉涌寺総門前の即成院
に、
弓の名手・
那須与一の墓があります。那須与一は、屋島の戦での、船上の扇の的を射たことで有名です。その戦功によって丹波、信濃、若狭、武蔵、備中の五州を受領しましたが、すぐに即成院に入り、義経が斬首された1189年、病のため亡くなります。


後白河法皇
が栄暦元年(1160)、平清盛に命じて仙洞御所の法住寺殿内に熊野神社を勧請したのが始まりという新熊野神社(いまくまのじんじゃ)。今様が得意で白拍子や芸子たちとも交流のあった後白河法皇は、熊野信仰が篤く、実際に33回(34回)も御幸したり、1164年には、現在の三十三間堂に1001体の仏像をつくらせるという仏教信者でした。ひどい頭痛持ちの 後白河法皇は、熊野の僧侶、蓮華坊の智慧にって頭痛が治ったことが、熊野を篤く信仰するようになった理由とされています。
現在同神社のシンボルとなっている大樟(くすのき)は、熊野より運ばせた樟を法皇自らお手植えしたと伝えられています。


蓮華王院(れんげおういん)(通称三十三間堂)


後白河法皇陵
頼朝
による義経討伐の一因である後白河法皇は、鎌倉殿こと頼朝を牽制するために、一途な義経を手の平で転がすように庇護し、二人の仲を引き裂いたとされており、「日本一の大天狗」や「稀代の策略家」などと呼ばれました。しかし、平清盛によって鳥羽殿に幽閉されたり、木曽義仲に捕らえられたりと 平安時代から鎌倉時代へと歴史が変貌する激動の時代に生きるに相応しい法皇であったともいえます。法皇が建立し院政を行った法住寺裏には、静かに眠る法皇の墓所「後白河法皇陵」があります。


佐藤継信・忠信之墓
 
奥州の藤原秀衡が.義経につけてくれた
佐藤兄弟 は、義経の側近として活躍し、屋島の戦いでは、義経めがけて飛んできた矢の前に継信が立ち、身代りになったといわれています。
弟の忠信は、歌舞伎
「義経千本桜」狐忠信のモデルにもなっていて、義経の愛妾静御前を守って壮絶な最期を遂げました。


小松少将重盛

清盛公の長男
重盛が小松殿と呼ばれていたのは、この小松谷に邸宅を構えていたためで、48基の灯籠を建立したのも、当地だったそうです。


六波羅蜜寺

天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人によって開創された西国第十七番の札所。
平安後期、
平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢をとめてより、清盛、重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年.(1183).平家没落の時、兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。


木曽義仲首塚・(八坂の塔)

八坂の塔の脇には、
朝日将軍木曽義仲塚 と刻まれた首塚があります。京に持ち帰られた義仲の首を家来が八坂に手厚く葬ったそうで、1997年まで高台寺近くの旅館の庭にあった首塚は、旅館の廃業に伴い、近所の公園を経て、八坂の塔・法観寺境内に移されました。


牛若丸
が鞍馬を出て奥州へ向かう途中で現在の蹴上付近を通りかかったとき、対面から来る馬に乗った武士9人が、すれ違いざまに泥水を跳ね上げました。泥水が牛若丸にかかり、さらに彼等が平家武士と知り、その高圧的な態度に憤慨して9人を斬って捨ててしまいます。
しかし、自らの行き過ぎた行動に反省してか、9体の地蔵尊を建てて弔ったとされ、
蹴り上げた水から蹴上という地名になったと伝えられています。
蹴上のインクラインを上ったところにそのうちの一つ
義経大日如来像があります。
(残り八体は現在不明)


京都市左京区黒谷の金戒光明寺にある立派なクロマツは、「鎧掛け松」と呼ばれています。
義経ら率いる源氏軍で活躍した
熊谷直実は、木曽義仲を討伐した後の平家との一戦「一の谷合戦」で清盛の弟・経盛の末子である平敦盛を討ち取ります。劣勢の平家軍、沖の船まで逃げようと馬を駆けさす若武者に「敵にうしろをみせるとは、引きかえせい。」と直実が呼びかけます。直実が海辺で取っ組み合ってみると女のような顔立ちの16歳の敦盛でした。
同じ年頃の息子のいる直実は、急に情にかられ「若者一人殺したところで戦局は決まったのだ、何になろうか」と思って助けようとしますが、振り返れば源氏武者が大勢駆けつけてきています。
直実は「どうせ殺されるなら自らの手でで殺して、弔ってやろう」と考えて、敦盛の首を斬りました。
その後、
直実は黒谷に敦盛を弔い、自身は黒谷の法然上人に帰依します。
その出家の際、鎧を脱ぎ掛けたのが金戒光明寺にあるクロマツです。
その他、同寺には平敦盛と熊谷直実の供養塔もありました。


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以下は、番外 道草編


七条・知積院


歩道橋より望む五条通り


六波羅・六道の辻


八坂の塔



煉瓦の積み方が「ねじりまんぼ」という捻れて見える積み方だそうで、通り抜けると別世界に繋がってしまうような不思議な感じがします。
線路の下をくぐって通り抜けが出来るようなこういう構造を
「まんぽ」と言うのは、中部地方から近畿地方にかけて使われていた方言だそうで、煉瓦の積み方が捻れてるので「ねじりまんぼ」
上のインクラインとトンネルが斜めに交差している「斜架拱」で、普通にまっすぐ積むのではなく捻れた積み方をすることによってトンネルの強度が保てるらしいです。
トンネルの上の文字
「石額」は、竣工を記念して、その時代の元勲が書いたりするそうですが、こっち側には「雄觀奇想」、通り抜けた向こう側には「陽気発處」と書いてあります。(意味は貴方が調べる事)
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