シリーズ源平を歩く〔E〕

滋賀県竜王町・鏡の里


大阪駅8:00発・長浜行JR新快速で56分。
滋賀県野洲駅9:00集合にぴったりカンカン




《 平家終焉の地 》
野洲市大篠原、、ここが平家終焉。 壇ノ浦合戦で義経に敗れた平家一門はことごとく入水し戦死したが、建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕らえられた。 宗盛父子は義経に連れられ鎌倉に向かったが、兄頼朝の許可を得ず勝手に官位をもらった義経は鎌倉入りを許されず、仕方なく腰越から京に引き返し、その途中この大篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため、平家最後の総大将宗盛とその子清宗を処刑したと伝えられる。
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道中途中の真っ赤な石楠花、これは平家 無念の血の色か〜
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《 西光寺跡の宝篋印塔 》
ここは、源平に関係ありませんが・・・
西光寺は嵯峨天皇の勅願で伝教大師が鏡山十二峰の一つ星ヶ峰の麓に建立した大寺院。
足利尊氏が後醍醐天皇に帰順を表明したところでもある。 源頼朝も当寺院でしばしば宿泊している。
戦乱で焼亡しその後中興されたが信長の焼き討ちで廃寺となる。
その名残を留めているのが宝篋印塔(鎌倉時代後期1300年頃の作)で、
国の重要文化財に指定されている。


0《 義経元服池 》
道の駅「竜王かがみの里」の国道8号線を隔てた西向かいに、僅か数uほどの小さな池があり、石碑が建っている。
これが「義経の元服池」と呼ばれる池である。
義経はこの池の水を元服の時に使い、元服の姿を水面に映してみたと言われています。


《 鏡神社 》
「元服池」の北東150m足らずの所に義経が元服の折に参拝した鏡神社がある。
0烏帽子掛松 0
鏡神社の参道入口には、義経が参拝した時に松の枝に烏帽子を掛けたとされる烏帽子賭けの松があり、明治6年の台風で倒れたため、現在は株上2.7mを残し石垣の上に仮屋根をして保存されています。
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《 義経元服のたらい 》
義経が元服の時に使ったとされる盥(たらい)の底板が現在も残っている。 これは白木屋に代々伝わった物であるが絶家となったので、現在は鏡神社で保管されている。
底板の形が半月板になっているのは、近年戦時中に出征する人が武運を祈り、お守りとして少しずつ削り取って戦地へ持っていったためとされている。
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《 御幸山 》 鏡神社の東側より細道を登ると古松がたくさん生えている所へ出る。以前は宮山と呼ばれていましたが、大正6年11月14日に近江湖東の地で陸軍の特別大演習が行われた時、大正天皇がこの宮山から大演習を統監され、この宮山を「御幸山」と命名し今日にいたってます。
春には可憐なピンクの町の花「アエンボ」(小葉の三つ葉つつじ)が群生し、今日はその満開風景を満喫出来ました。
《 八幡神社 》
鏡神社の参道石段をのぼった右手の山裾に小さな社がある。この社は応神天皇と源義経公が合祀されている。
この神社は鏡神社の境内社(末社)で、元服後の義経を祀り、他の境内社とは異なり京都鞍馬の方角に向けられています。
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《源義経宿泊の館(白木屋)跡》
承安4年(1174年)3月3日の暁に鞍馬山を発った牛若丸一行は、その夜「鏡の宿」に到着<当時の宿駅の長であった澤弥伝の旅籠白木屋に泊まった。
ここで牛若丸は平家の追っ手を欺くため一刻も早く元服して 烏帽子を着け東男に姿を変えることを決意し、近くの烏帽子屋五郎大夫に源氏の左折れ烏帽子を注文し、烏帽子親も定めず鏡池の岩清水を用いて自ら前髪を落として ただ一人で元服、源九郎義経と名乗ることにした。
そのあと新羅大明神(源氏の祖神)を祭る近くの鏡神社に参拝し、源氏の再興と武運長久を祈願したとされている。
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帰りは、蓮華畑と麦畑の中をJR篠原駅までのんびりと・・・
(篠原駅前2時過ぎ解散)
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