(2012年9月5〜6日)
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南・東北の名城を訪ねて
白石城〜白河小峰城〜鶴ヶ城〜米沢城址〜上山城〜蔵王



米沢城は米沢市街地のほぼ中心に位置し、戦国時代後期には伊達氏の
本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城でもあります。
江戸時代には米沢藩の藩庁が置かれて、歴代藩主が居住しました。
[上杉景勝・上杉鷹山 等]上杉氏築城当時30万石の大名の居城であって、
石垣や天守は構えられず、土塁を築き本丸に2基の三階櫓を建てて天守
の代用とされていました。

明治4年(1871年)廃藩置県により米沢県が置かれ、明治6年(1873年)に
は城の建物が全て破却された。二の丸にあった藩の政庁はそのまま郡役所
町役場(後に市役所)として利用されるようになりました。



米沢への第一歩は、上杉家・直江兼続の菩提寺の
春日山林泉寺

上杉氏の本拠地があった春日山城(現在の新潟県上越市)の山麓に
建立された林泉寺を元とし、関ヶ原の戦いの後に米沢に移った上杉
景勝の実母(上杉謙信の姉、長尾政景の妻)仙洞院が元和3年(1617年)
に林泉寺14世万安大悦を招聘して同号の寺を建立されました。
上杉氏の転封にともない謙信の遺骸、上杉氏関係の文書.重宝の大半が
米沢に移され、林泉寺もこれに従って移転したとされています。






米沢を語るとき上記の三人より、『上杉鷹山』が有名です。
上杉 鷹山(上杉 治憲)は、江戸時代中期の大名で、
出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生
のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られています。


その米沢・借金地獄の原因は
@.慶長6年(1601)の関ヶ原合戦後に、上杉家は会津120万石
  から米沢30万石に減石。
A.石高を大規模に減らされても、上杉家の異常に多い家臣数
  が変わらなかった。
B.第3代・上杉綱勝が後継者を定めず急死し、吉良上野介の
  子が上杉の家督を継ぐ際に手続きの申請に不手際があり、
  米沢30万石から15万石に減石。
C.上杉鷹山が家督を継ぐ前の、歴代の藩主や財政担当者が、
  財政状況に無関心だった。
D.上杉家は古い格式を重んじ、着る・食べる・乗る・習慣的な
  行事に費用を使いすぎた。


米沢藩の財政圧迫の危機をを救った上杉鷹山は、
初代 上杉謙信と並んで後世に語り継がれています



上杉鷹山の有名な名言
「なせば成る 為さねば 成らぬ 何事も
成らぬは人の 為さぬなりけり」

は、
 「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を
成らぬと捨つる人のはかなき」


武田信玄(1521-1573)の名言を
模範にしたものらしいです。




米沢城址(松が岬公園)
明治7年(1874)に城跡は松が岬公園として市民に一般開放されました。
明治9年(1876年)上杉神社を現在の地である本丸跡に移し、明治29年
(1896)二の丸跡に上杉家14代当主・茂憲伯爵邸が建てられます。


松岬神社
明治に入り、上杉神社に上杉謙信公とともに祀られていた
上杉鷹山公が松岬神社に分祀されました。
大正12年上杉景勝公が合祀され、昭和13年、米沢市制
施行50周年を記念して、新たに直江兼続、鷹山公の師細井
平州、重臣竹俣当綱、莅戸善政が配祀されました。




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